日本にあこがれ、日本に恋して、そして愛する人が亡くなってからは、
ここ徳島において、サウダーデ(孤愁)と共に生きたポルトガル人モラエス。
この資料館では、選りすぐりの収蔵品をデジタル化して公開しています。
徳島を愛したモラエスの資料をご覧ください。
ここ徳島において、サウダーデ(孤愁)と共に生きたポルトガル人モラエス。
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新着情報
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- 2022年3月28日
- 「モラエスデジタル資料館」を新たに公開します。
徳島を愛した異邦人モラエス
モラエスは1854年ポルトガルのリスボンで生まれました。海にあこがれた彼は、海軍兵学校を卒業後、軍人となりモザンビーク勤務などを経て、37歳で中国のマカオ港務副司令官となりました。また一方では、美しい日本の風景と人情風俗に強い関心を持つようになり、41歳で「極東遊紀」「大日本」を出版します。
その後、神戸に来てから45歳で外交官に転身し、58歳で神戸・大阪ポルトガル総領事を務めます。1900年には日本人の福本ヨネと結婚し、「日本通信」等を著し、日本の文化を母国の新聞等に発表します。しかし最愛の妻ヨネが亡くなるや、総領事を辞任し1913年に妻の郷里の徳島に移住します。
徳島では眉山の麓の伊賀町の長屋に、亡き妻の姪の斎藤コハルと暮らしながら、文筆活動に入り 「徳島の盆踊り」を出版し、阿波おどりや徳島の風土・文化を世界に紹介します。その後コハルにも先立たれ、69歳で「おヨネとコハル」等を出版に至り、望郷の思いにひたりながら ポルトガルの家族や友人と文通するだけで、終生母国に帰らず孤独の内に1929年75歳で生涯を終えました。
その後、神戸に来てから45歳で外交官に転身し、58歳で神戸・大阪ポルトガル総領事を務めます。1900年には日本人の福本ヨネと結婚し、「日本通信」等を著し、日本の文化を母国の新聞等に発表します。しかし最愛の妻ヨネが亡くなるや、総領事を辞任し1913年に妻の郷里の徳島に移住します。
徳島では眉山の麓の伊賀町の長屋に、亡き妻の姪の斎藤コハルと暮らしながら、文筆活動に入り 「徳島の盆踊り」を出版し、阿波おどりや徳島の風土・文化を世界に紹介します。その後コハルにも先立たれ、69歳で「おヨネとコハル」等を出版に至り、望郷の思いにひたりながら ポルトガルの家族や友人と文通するだけで、終生母国に帰らず孤独の内に1929年75歳で生涯を終えました。
モラエス年譜
西暦 (和暦) | 年齢 | 事 項 |
1854 (嘉永7) | 0 | ポルトガル国、リスボン市に生まれる。 |
1875 (明治8) | 21 | 海軍兵学校卒業。 |
1879 (明治12) | 25 | 海軍中尉に昇進。モザンビークの駐屯勤務を終えてリスボンに帰任。 |
1885 (明治18) | 31 | 砲艦「ドウロ号」で3度目のモザンビーク赴任。 |
1888 (明治21) | 34 | 海軍輸送船「インディア」で東洋マカオに来航。 |
1889 (明治22) | 35 | 初めてあこがれの地、日本へ来る。マカオで亜珍を妻とり。 |
1890 (明治23) | 36 | 「カモンイスの厳窟」「清明」「バンコックにて」など短編を書く。 |
1891 (明治24) | 37 | 少佐に昇進。マカオの港務副指令に任命される。 |
1892 (明治25) | 38 | 「蚤家と船乗」「ありがたい療法」「癖者」「小さい亜忽の身の上」「皆既月食」の短篇を書く。 |
1893 (明治26) | 39 | 「寺院」「支那最後の追憶」を書く。鋼砲購入の為来日。商談は不成立。 亜珍との間に二児あり。 |
1894 (明治27) | 40 | 「日本の追憶」を書く。日清戦争の宣戦詔勅をポルトガル語に訳し世界に知らせた。 |
1895 (明治28) | 41 | リスボンで「極東遊記」「大日本」を出版。 |
1898 (明治31) | 44 | 12月に神戸に来て領事館設置にかかる。日本永住を決意。 |
1899 (明治32) | 45 | 5月12日に神戸大阪ポルトガル領事事務取扱に就任。 9月29日に認可状下付されて正式に領事となる。 |
1900 (明治33) | 46 | 「最初の蟻」「人形」「楠公の白馬」を発表。おヨネと結婚。(おヨネ25歳) |
1903 (明治36) | 49 | 第五回内国産業博覧会が大阪で開かれモラエスの努力でポルトガル館ができた。 日ポ貿易改善増進に努力。 |
1905 (明治38) | 51 | 「日本生活」「日本通信」「茶の湯」出版。 |
1909 (明治42) | 55 | おヨネと徳島へ盆踊見物に来た。 |
1912 (明治45) | 58 | 神戸、大阪総領事に任官。おヨネ死亡。(38歳) 「ポルトガルの海外植民地」「兵庫と大阪」出版。 |
1913 (大正2) | 59 | 徳島移住を決意、総領事辞任。来徳し伊賀町でコハルと暮らした。 |
1914 (大正3) | 60 | 欧州大戦勃発、スパイの誤解を受ける。コハルに第一子誕生したが死亡。 |
1915 (大正4) | 61 | 2年ぶりの盆踊りにモラエスも興じた。 |
1916 (大正5) | 62 | ポルトで「徳島の盆踊」出版。コハル死亡。(23歳) |
1917 (大正6) | 63 | ポルトで「コハル」出版。徳島に県立光慶図書館ができた。 |
1918 (大正7) | 64 | ポルトで「おヨネかコハルか」出版。 |
1919 (大正8) | 65 | おヨネとコハルの永代供養を北山町の慈雲庵、紫雲智賢尼に依頼した。 正式の長文遺書をしたためた。 |
1920 (大正9) | 66 | ポルトガルで「日本におけるメンディスピント」出版。 |
1923 (大正12) | 69 | ポルトガルで「おヨネとコハル」出版。 |
1924 (大正13) | 70 | リスボンで「日本史瞥見」出版。東京外語学会誌に「モラエス訪問記」を発表。 |
1927 (昭和2) | 73 | 徳島日日、徳島毎日、大阪朝日の記者がモラエス訪問。翌日訪問記を掲載。 |
1928 (昭和3) | 74 | 老齢と宿病のため全身にむくみが目立ち始めた。 |
1929 (昭和4) | 75 | 伊賀町三丁目の寓居で事故死(7月1日)安住寺で告別式。蔵書、遺品は県立光慶図書館に寄贈。 |